第898回 ボルシチはロシア料理に非ず


ロシアよもやま話 (^.^)

画像


突然ですが、皆様もボルシチをロシア料理だと思っておられますか?
ボルシチがロシア料理(然も代表的な)であると思っておられる方が多いのには驚きますが、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、ポーランド、バルト三国からルーマニア等、いわゆる東欧圏ではかねてからボルシチの本家論争が続いています。
筆者は、14世紀の時点で料理として確立していたウクライナこそが本家であると考えていますが、同国が曾て旧ソ連邦に属する一共和国であったことを思えば、当時はソ連邦料理(一括りにして通称ロシア料理)であり、今なおロシア料理とみなされるのも無理からぬことでしょう。
エカテリーナ二世、文豪ゴーゴリからバレー「瀕死の白鳥」で世界を魅了した伝説のアンナ・パヴロヴァ等々、古今多くのセレブが愛してやまなかったボルシチはそもそも庶民の家庭料理として生まれました。
故人の魂がボルシチの熱い湯気とともに天に昇るものとされて葬儀の参席者にふるまわれるようになったとの説もありますが、婚礼、祭事にも供され、慶弔を問わぬ文字通りの民族、伝統料理です。ボルシチは一言で言えば、テーブルビーツ(ロシア語では、スタローヴァヤ スヴョ―ルカ、我国ではその色合い、形状から通称赤かぶとも呼ばれます)を主材料として、人参、玉葱、キャベツあるいは牛肉等を具材とするブイヨンスープのカテゴリーに入ります。用いる食材は地域により違いはあるものの、いずこのボルシチもこのテーブルビーツ(以下、単にビーツと呼びます)を共通の主材料としているのが特徴です。ロシア料理には欠かせぬキャベツとは対照的にビーツは寒冷地での栽培が難しく、この意味からも純粋ロシア料理の資格には欠けるようですが、一方、我国のロシア料理店で供されるボルシチには、ビーツの代替としてトマト(ピューレ)を使うのが一般的であり、筆者はこれまで日本国内でビーツ入りのボルシチに出会った経験がありません。タイのトムヤムクン、フランスのブイヤベースと並び、世界三大スープの一つに数えられることもあるボルシチが、我国では日本風に変えられているのです。ビーツなしのボルシチは、味噌の入っていない味噌汁さながらに、ボルシチとは似て非なるもののようで、我国で数多く売られているインスタント製品のボルシチをモスクワで住民に試食してもらったところ、全員が「ビーツなしにはボルシチの味は出ない、ビーツが入っていないものはボルシチではない」との結論に至ったとの記事を読んだ記憶があります。モスクワでビーツ入りのボルシチを味わった日本からの出張者の方々には、「やはり本物はうまい」と異口同音に喜んで頂けたことから、視覚的には毒々しく見えかねぬ深紅の色合い、独特の風味をもつビーツが日本人の口に合わぬとの理由で、トマトピューレに置き換えられたとは考え難いところです。
数年前のことになりますが、筆者は本邦帰任後に本場のボルシチをつくってみようと一念発起したものの、肝心のビーツが見つからず難儀しました。大手デパートで取り寄せを頼んだ茹でビーツの輸入缶詰、また漸く見つけた北海道産の生ビーツはともに結構な高価格であり、コスト問題に思い至った次第ですが、同時に傷みやすいといったビーツの特徴も知ることになりました。因みに、大いなる手間を要した料理の方は家人の口にも拒絶され、ボルシチ独特の風味は小鍋調理ではなかなか出せぬ味であることを痛感したものです。
さて、我国のロシア料理店ではビーツの入らぬ“似て非なる”ボルシチが供されていますが、一方では、ボルシチという料理名そのものについては、すっかり浸透、定着しているのが不思議なところです。スーパーの陳列棚に目を向ければ、インスタントのボルシチ製品が、然も複数ブランドが並んでいるのです。
何故、我国ではボルシチがこのようにポピュラーになったのでしょうか?
その答はといえば、我国において初めて本場インドカリー(カレー)を供したとされる新宿中村屋の功績に違いありません。同社HPによれば、新宿中村屋の創業者である相馬夫妻は、ロシア革命が迫る1914年(大正3年)に来日した盲目のウクライナ詩人、ワシーリー・エラシェンコに対し、官憲が急進的な共産主義革命家であるとの嫌疑をかけて逮捕、国外退去を命じた1921年(大正10年)に至るまで物心両面の支援を続けました。この出会いこそが、1927年(昭和2年)、新宿中村屋の喫茶部創設にあたり本場インドカリーと並んで我国で初めて供されたボルシチにつながったものとしています。
ビーツを使わずトマトを煮込んだ和風ボルシチの誕生です。当時の日本ではビーツの入手が難しかったのではないかと思いますが、何れにせよ90年後の今日に至るまで人口に膾炙し、インドカリーと並んで同社の代表料理としてメニューに載り続けている事実は、米国の本場ベースボールと日本野球との奇妙な関係に共通するものがあるように思います。
現在、日本のロシア料理店で出される和風ボルシチのルーツは本場ウクライナではなく、新宿中村屋にあるようです。(了)

ご参考:
MG様より御投稿いただきました。
Thanks a lot!

他の読者の皆さんも、軽い気持ちで “雑談あれこれ” に遊びに来てください。